1933年築の旧足立邸。2022年秋には国登録有形文化財に
旧足立邸は神奈川県葉山町にある1933年に建てられた西洋式別荘、いわゆる洋館です。王子製紙取締役だった実業家・足立正氏が、自身の家族と夏を過ごすための別荘として建て、今も「旧足立邸」と呼ばれています。この旧足立邸の設計を手掛けたのは、早稲田大学の大隈講堂、日比谷公会堂の設計などを手掛けた佐藤功一氏。ハーフティンバー様式による美しい外観の佇まいはまさに圧巻のひとことで、2022年秋には、その歴史的価値が認められ、国登録有形文化財(建造物)として登録されました。
ここで暮らしていらっしゃるのが、柴田夫妻とそのお子さんたちです。「よく、本当に住んでいるの?と聞かれるんです」と妻の結さんは微笑みます。確かに、クラシカルかつ優美な世界観で統一された室内は、生活感が溢れ出てしまう暮らしとはほど遠く、にわかには信じ難いもの。ですがご家族は、確かにこの住まいで暮らし、日々を過ごしていらっしゃいます。
資金面に建築法規。住宅の継承を阻む難題は山積み!
ただ、歴史的にも建築的にも価値のあるこの建物も、継承者がなかなか見つからず、一時期は取り壊しの危機にありました。歴史的な建物の継承が困難なのにはいくつか理由がありますが、主なものとして
(1)相続などにより売却、現金化の必要がある
(2)継承者そのものを見つけるのが難しい
(3)建物が現在の建築基準を満たさない
(4)購入するにしても住宅ローンが利用しにくい
(5)現在のライフスタイルにあわず、建て替えたほうが使い勝手がよい
(6)保守・維持にも人手、金銭面での負担が大きい
といった点が挙げられます。そのため、第三者が思っている以上に継承は容易ではなく、やむを得ず取り壊されてしまうのが実情のようです。
では、この旧足立邸は、どのようにして継承されたのでしょうか。ご夫妻に住まい探しについて伺ってみました。
「そもそも住まい探しの思い立ちは、よくある話です。結婚して、夫婦で都内の賃貸住宅に暮らしていましたが、妻が妊娠したので住まいを買おうか、というもの。ただ、東京都内のマンション、一戸建てを見学していたものの、なかなかよいものがなくて」と夫が振り返ります。販売されている住まいを見学すればするほど、2人の「なにか違う」という違和感が大きくなっていったのだといいます。
「もともと私がアンティークショップに勤務していて、味わいのある古いもの、本物を大切にしたいという価値観だったんです。学校も横浜の山手に通っていたので、本物の洋館を目の当たりにしてきましたし、できるならお城か教会に住みたいと思っていたほど(笑)。だから日本の住まいを見ても、『○○風』だと物足りなくて……、もちろん輸入住宅も見学しましたが、どうも違う。海外の建物を移築してこようかと一時は本気で考えました」(結さん)
夫も「私自身も学生時代から古い建物が好きで、年月とともに味わいを増す、本物の建物で暮らしてみたいという思いがありました」といいます。そんなときにたまたま見つけたのが、売りに出されていた旧足立邸でした。2018年夏のことです。
「すぐに見学して申し込みをしたものの、金額面で折り合わなかったんですね。ただ、前の所有者さんとしては建物を壊さずにここで暮らしてほしいという意向を強くお持ちでした。他の購入希望者は法人が多く、建物を取り壊して開発する話もあったそうです」(夫)
旧足立邸だけではありませんが、古い建物は敷地にゆとりがあることが多いもの。経済合理性を考えれば、取り壊して土地活用を考えるのがもっとも王道といえるでしょう。それでも、建物を残したいという前所有者の意向もあり、他の購入希望者へすぐに売却という運びにはなりませんでした。
一方、ご夫妻も旧足立邸の購入はいったん保留とし、その後約1年半、住まい探しを続けていましたが、2019年が終わろうとするころ、ついに敷地の開発を計画する法人相手に売却が決定したという話を聞いた不動産会社が「旧足立邸の購入は諦めますか?」と夫妻に声をかけたのだといいます。
「他にもたくさん見学しましたが、洋館ってないんですよね。あったとしても、古いだけでボロボロだったり、場所が神戸などの首都圏外だったり。海外からの移築となれば予算も時間も想像以上にかかる。今後、子どもが大きくなれば、どんどん制限も出てきて、理想の住まいと出合えそうにない。だとしたら、ここで腹をくくろうと判断したんです」。予算を超えて高額とはなりましたが、ついに夫妻は購入を決断しました。
のちに聞いたところ、法人との契約はほぼ最終段階で、あとは判子を押すだけ、というところまできていたそう。「建物を残したい」という夫妻と不動産会社の思いがギリギリの展開を引き起こしたのです。
ゼネコンや建築関係者、金融機関の熱意で難題を乗り越える
そうして購入を決断したものの、今度は建物の復元と暮らしにあわせたリノベ、さらに住宅ローンの問題が立ちはだかります。
「まず、洋館を買ったといっても、周囲に経験のある人がいない(笑)。完成当時の姿に復元すべきなのか、何からどう手をつけたらいいのか。困って会社の先輩に相談したところ、いい人を紹介してあげる、といわれて、大手ゼネコンで歴史的建造物の改修と活用を手掛ける専門家と出会うことができました。そこから住宅継承を手掛けている『住宅遺産トラスト』につないでもらい、古い建物の修繕やリノベについて情報をもらいました」
詳細を専門家に調査してもらったところ、建物の主要構造部に腐食や劣化はなく、耐震性や断熱性などは厳密には解体しないと詳細はわからないものの、まずは問題ないだろうという結論に至ったといいます。
また、歴史ある旧足立邸は戦後の一時期、GHQに接収され、その後も複数の所有者の手に渡っていました。そのため、キッチンやお風呂などは都度、リフォームされていたといいます。ただ、設計当時の建築図面が散逸していることもあり、完成当時の姿に復元することはあきらめ、お風呂は現在の家族が暮らしやすいデザインへと変更。さらに下水がきていなかったため敷地内に下水道を引き込む工事、食堂の壁紙と建具の修繕などのリノベーションを実施し、当面の家族の暮らしやすさを実現しました。
こうしたリノベーション費用は夫妻の貯蓄から捻出したものの、想像以上に費用はかかったといいます。
「本当ならキッチンや和室も手を入れたかったのですが、まずはすぐに暮らせることを優先しました。ただ、暮らしてみると思ったより和室はしっくりきてなじみますし、子育てもしやすいですね」と結さん。
住宅購入費用は住宅ローンを利用し、現在、返済しているといいます。
「ただ、大半の金融機関には断られました。まず、住宅ローンの融資条件が上限1億円という金融機関が多く、そこで半分くらいお断り。次に建物ですね。当然ですが(住宅ローン審査に必要な)検査済証などもないので、そこでさらに金融機関に断られるんです。また、『ほんとに住むんですか?』とも聞かれました。この建物は女中部屋も含めると、なにしろ11部屋もあるので(笑)」(夫)
ただ、金融機関のなかでも、古い建築物を残していくことに理解のある大手金融機関の担当者と出会えたことで事態は好転。「ここで夫妻が住宅ローンを組めなければ、旧足立邸が解体されてしまう」と熱意をもって上長に掛け合ってくれたことで、なんとか融資を受けることができたそう。
「ドラマさながらの、熱い金融マンの世界ですよね。いい人に巡り会えました」といい、建築関係者と金融の担当者、それぞれの力と熱意があり、無事、「継承」が行われたようです。
良い建物は人を集め、暮らしを豊かにする
現在、家族が暮らしはじめて2年と少しの月日が経過。建物の一部を撮影場所として貸し出していることもあり、ロケハン(下見)や撮影スタッフ、建物の調査研究者、文化財登録のための行政担当者など、日々、多くの人が住まいと関わり、つながりをもたらしてくれるといいます。
「とにかく庭が広いので、子どもたちは庭でよく遊んでいます。私のきょうだいの子どもたち、つまりいとこたちですが、この建物が大好きでよく遊びにきています。コロナ禍で思うように外出できなかったときも、庭があるので、息が詰まるようなこともありませんでした。日に日に移りゆく、草木の変化も本当に愛おしくて。ただ、庭も理想の姿とは遠いので、もう少し手入れをしたいのですが」と結さん。
夫は現在もテレワークのため、週2日ほど自宅で仕事をしていますが、サンルームに書斎、庭など、仕事をする場所に困ることはありません。
「修繕にかかわった大手ゼネコンの人に言われたのが、『この家は力があるから、何もしなくても人が集まるよ』と。確かに毎週末、誰かが来ていて、話がつきることもないし、子どもたちは常に遊んでもらっています。リノベーションを担当してくれた人も含めて、多くの人が同年代で、価値観も似ている。この住まいに携わらせてほしい、という人もいるほど。東京で、単に不動産を買うだけだったら、こうはならなかったでしょうね」といいます。
建物の維持・管理を、お金と時間がかかる「義務」ではなく「趣味」として捉えると、こんなにも豊かな考え方ができるのだ、と気付かされます。また、結さんは洋館での暮らしを、「心の支えでもある」と話します。ともすれば子育てや現実に追われがちな日々だからこそ、大切なもの、美しいものが心の支えになるというのです。多くの人の願いと思いによって無事、継承されたこの建物、さらに50年、60年と豊かな時を紡いでいってほしい、そして願わくば次の世代へ……。洋館や古い建物が好きな一人として、そう願ってやみません。
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